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故人(奥様)が闘病生活の中で「お葬式の希望」を記された一冊のノート。


 最後の力を振り絞って記されたことは、その筆跡をみてもわかります。


 ご家族と一緒に、書き記されたノートを拝見すると下記のキーワードが出てきました。 


・ 宗教色のないお葬式 

・音楽葬 

・ クラシック音楽 

・クラシックバレエ 

・ バレエの写真 

・華麗な花 


故人の「想いをカタチ」にした葬儀スタイルは音楽葬です。


 お葬式のテーマは、ご家族と話し合い「故人をプリマ・バレリーナとしてお見送り」です。


 献奏曲は、故人のご次男さまによる、ブラームス Op.118-2 Intermezzoのソロ演奏。


 彼は3歳からピアノを弾いていらっしゃるとのことです。


 献奏を受けて、ブラームスの「ホルントリオ」を演奏しました。 


この曲自体は大変有名でよく演奏されますが、第3楽章がブラームスの母親が亡くなった際に書かれた「葬送の曲」であることはあまり知られていません。


 ホルン三重奏曲が完成したのと同時に母親が亡くなったため、ブラームスは当初でき上がっていた第3楽章を差し替え現在のような形にしました。 


このように完成後に一つの楽章を丸々差し替えることは音楽史上まれなことです。


 全楽章の中でもこの楽章だけが異質です。


ブラームスがこの曲を単独で発表せず、あえてホルン三重奏曲の中に入れた意味は計り知れません。 


「標題音楽」を好まなかったブラームスがこのようなストーリー性のある音楽を書いたことも異例のことです。また、第3楽章の主題にはドイツの古いコラール「愛する神の導きにまかすもの」が用いられ、より重厚な対位法で書かれています。


 これらのことは母への強い想いの表れであると言えます。


 弔電拝読後には「亡き王女のためのパヴァーヌ」を献奏しました。 


「レッスン中のその美しい立ち振舞いはバレリーナのかがみでした」 


「優雅に踊っている姿だけが心に浮かびます」


 この一文を受けての献奏です。


 想い出の曲は「美しき青きドナウ」です。 


バレエの発表会時の曲とのことでした。 


「美しく青きドナウ」は、ヨハン・シュトラウス2世によって1867年に作曲されたワルツです。


 ヨハン・シュトラウス2世(Johann Strauß II/1825-1899)は、19世紀におけるオーストリアのウィーンで活躍した作曲家・ヴァイオリニスト。


 生涯の多くをワルツの作曲に捧げ、「ワルツ王」と評されています。 


「オーストリア第二の国歌」、「シュトラウスの最高傑作」と讃えられています。


 カルテットでの「美しく青きドナウ」の演奏中には、式段中央のスクリーンで故人の踊る姿が映し出されます。 


お葬式は「故人が主役」と云われることがよくあります。


 故人の「想いをカタチ」にし、「 プリマ・バレリーナ」としてお見送りしたお葬式です。

グリーフ(grief)とは深い悲しみ。

近しい人と死別した人がグリーフから立ち直り社会に適応できるように支援することを

グリーフケアといいます。

さりげなく寄り添い、支援することです。

グリーフ(grief)には回復までの段階があり、この過程をグリーフワークといいます。

最近はSNSなどで終活や「グリーフケア」に関する情報が氾濫している傾向が見受けられます。

正式な資格ではない、民間団体(法人を含む)が認定した種々の肩書きも存在し始めています。

終活や「グリーフケア」の分野は高度な専門知識はもちろんのこと、経験が必要になります。

当然のことではありますが、人間力が基本となります。

これらの活動は葬儀社主導であったり、ビジネスを目的とするものではあってはならないと強く思うのです。

間違った方向に進んでいることを危惧しています。

今こそ、正しいグリーフケアの活動は必要です。

これらの活動を広めるために、何が出来るのであろうか? さくら葬祭と縁のあるお客さまにご相談したところ、下記のメールが返信されました。


~お客さまからのメール~


昔からのしきたりや習慣というのは、グリーフケアとしてよく考えられていると思います。

葬儀で気持ちの区切りをつけ、皆さんからのお悔やみを受ける。

その後徐々に喪の色を薄くしていくことによって、悲しみを忘れる方向に向けていく。

だから、参列者として作法通りにすることは大変重要なことだと思います。

作法より気持ちが大事とばかり、自分流にしてしまうのはよほど遺族のことをわかっている人でなければできるものではありません。

葬儀社としては、マナーやしきたりを教えることもその意味ではグリーフケアの手助けになるのではないでしょうか。


以上です。


「お葬式の意味」を今一度、見直す時期に来ているのかもしれません。

最近では、検査の結果「癌」と診断された場合、患者本人へ告知するケースが増えています。

以前は家族には告知して患者本人には告知しないケースがほとんどでした。

告知が行われるようになった理由に、クオリティ・オブ・ライフ( quality of life、QOL)という概念が導入されてきたことがあります。

クオリティ・オブ・ライフとは生命・生活の質という意味です。

「癌」の告知は癌診療の第一歩であると言われています。

重要な医療行為のひとつとも言われています。

医療従事者の方々は、より質の高い告知を求められます。

告知により患者本人だけでなく、家族も生き方を変えることが多々あります。

私たちの想像をはるかに超える、壮絶な事であることを感じます。

お葬式の事前相談も家族と、ご本人も参加して行うケースが増えています。

ご本人の体調がすぐれない時には、エンディングノートを中心に行なわれます。

ここでのエンディングノートは市販のものではありません。

葬儀会社のエンディングノートでもありません。

一冊の大学ノートやメモ帳である場合がほとんどです。

そこに記された文字には魂が込められていることを強く感じます。

決して、きれいごとではないのです。

私たちにできる唯一のことは、ご本人と家族の想いが叶えられるように、ご提案とお手伝いをさせていただくことだけなのです。

エンディングノートというワードが知られつつある現在、その意味を考え直さなければならない時期に来ていると思います。



お葬式の打ち合わせ時に拝見させていただいた一冊のノート。

そのノートには故人が闘病生活の中で「お葬式の希望」を記されていました。

最後の力を振り絞って記されたことは、その筆跡をみてもわかります。

独自のエンディングノートです。

ご家族は書き記されたエンディングノートの要点を時間をかけてまとめられました。

故人の「お葬式の希望」は明確です。

・宗教色のないお葬式

・音楽葬

・クラシック音楽

・バレエ

・想い出の写真を飾る

・華麗な花

・お焼香でなく献花

故人の「想いをカタチ」にした葬儀スタイルは音楽葬です。

お葬式のコンセプトは、ご家族と話し合い「故人をプリマ・バレリーナとしてお見送り」です。

献奏(献曲)はブラームスの「ホルントリオ」です。

この曲自体は大変有名でよく演奏されますが、第3楽章がブラームスの母親が亡くなった際に書かれた「葬送の曲」であることはあまり知られていません。

ホルン三重奏曲が完成したのと同時に母親が亡くなったため、ブラームスは当初でき上がっていた第3楽章を差し替え現在のような形にしました。

このように完成後に一つの楽章を丸々差し替えることは音楽史上まれなことです。

全楽章の中でもこの楽章だけが異質です。

ブラームスがこの曲を単独で発表せず、あえてホルン三重奏曲の中に入れた意味は計り知れません。

「標題音楽」を好まなかったブラームスがこのようなストーリー性のある音楽を書いたことも異例のことです。

また、第3楽章の主題にはドイツの古いコラール「愛する神の導きにまかすもの」が用いられ、より重厚な対位法で書かれています。

これらのことは母への強い想いの表れであると言えます。

お葬式当日に決定したことですが、弔電拝読後に「亡き王女のためのパヴァーヌ」を献奏させていただきました。

多くの哀悼のお言葉の中から、ご家族に拝読のご依頼をうけた弔電の文章に

「レッスン中のその美しい立ち振舞いはバレリーナのかがみでした」

「優雅に踊っている姿だけが心に浮かびます」

この一文を受けての献奏でした。

想い出の曲は「美しき青きドナウ」です。

バレエの発表会時の曲とのことでした。

「美しく青きドナウ」は、ヨハン・シュトラウス2世によって1867年に作曲されたワルツです。

ヨハン・シュトラウス2世(Johann Strauß II/1825-1899)は、19世紀におけるオーストリアのウィーンで活躍した作曲家・ヴァイオリニスト。

生涯の多くをワルツの作曲に捧げ、「ワルツ王」と評されています。

「オーストリア第二の国歌」、「シュトラウスの最高傑作」と讃えられています。

カルテットによる演奏です。

カルテットでの「美しく青きドナウ」の演奏中には、式段中央のスクリーンで故人の踊る姿が映し出されます。

故人が書き記したエンディングノートから、ご家族が故人の「想いをカタチ」にしたお葬式でした。


ご遺族から概略こんなお手紙をただきました。

 ~先日は大変お世話になりました。祖父が終活を始めてから何度も会っていただき、祖父の想いを大事にしてくださったことに感謝しています。……祖父のリクエストした大好きな曲たちの生演奏、色々なご縁も感じることが出来、祖父も驚いていることと思います。私と真ん中の妹は中学時代、ヴァイオリンをやっていたということもあり、懐かしい楽器の音色での祖父の送別曲には涙が止まりませんでした~

このご家族の場合は、お祖父さまが高齢にも関わらず自ら「終活」をはじめられ、連絡をいただいたのです。

ご高齢でしたので何度も自宅にお邪魔しお話を伺いました。

当然、お祖父さまの会話をご家族も聞いておられたわけです。

次第にご家族も話しに加わってくるようになり、結果として家族みんなでお祖父さまの最期に向けたストーリーをつくっていくことになりました。

また、お孫さんの一人は妊娠中でしたので、なるべく葬儀に出席しやすい工夫もしました。

お手紙はこう続きます。

~一番下の妹の出産予定日に亡くなった祖父は、お別れ会が終わった次の日に、自然にひ孫を連れてきてくれました。皆『おじいちゃんの生まれ変わりだね』と言っております。妹は体も大変だったと思いますが、お別れを出来ないままにならなくて良かったです。作成してくださった祖父のムービーをみて、まだ悲しさは消えませんが、準備をちゃんとすることができ、あたたかな家族葬になって祖父も『おつだなあ』と見守ってくれているはずです~

この文面からわかるように、このご家族の中では、お祖父さまの死と、ひ孫さんの誕生が結びついて、そこに新たなストーリーが生まれています。

お祖父さまの死はけっして「お終い」ではなく、ご家族にとっては新たなドラマのはじまりでもあったのです。

こうしたご家族の前向きな気持ちは、お祖父さまの葬儀ではなく「お別れ会」と表現されているところにも表れているといえましょう。


Aさんは両親を相次いで看取り、65歳で年金をもらえる年齢になったことをきっかけにエンディング・ストーリーづくりにとりかかりました。

そのときAさんは、まずあと10年は生きようと考えました。

55歳で生まれた初孫がいま10歳。

この子が成人するのを見届けようというのです。

Aさんはまず、妻と長男、長女の前で、自分の葬式は無宗教でやりたいと正直に胸の内を明かしました。

さらに家の権利証や預貯金を妻と長男、長女に示し、相続の対象となる財産を明確にしました。

最初は何をいってるんだと思ったご家族も、Aさんの真摯な態度に動かされ、次第にAさんが亡くなった後のことを真剣に考えるようになりました。

実はAさんの両親は自分たちが死んだ後のことにまったく無頓着で、Aさんの実家の権利書がどこにあるのかすら死後もしばらくの間わからず、Aさんが苦労していたのをご家族も知っていたからです。

つぎにAさんは故郷にある墓の権利を長男に譲ることにしました。

市営の墓地だったので権利金なども必要なく、スムーズに名義変更ができました。

そしていよいよ自分らしいお葬式の出せる葬儀社をさがすため、いわゆる生前相談をはじめました。

最初は新聞に挟み込まれたチラシから近所の葬儀社を何社か廻ってみました。

一社では「生前相談を」というとすぐに料金表を見せられ、斎場や祭壇の大きさなどの話が延々と続いたので、途中で話を切り上げてしまいました。

もう一社では生前相談とは名ばかりで資料を渡されただけで終わりました。

こうした葬儀社回りをやっているうちAさんも「目が肥えて」きました。

そんなころ知人の葬儀にたまたま出席。

そこでさくら葬祭の執り仕切った音楽葬に出会いました。

これこそ自分の探していた葬儀のかたちだと思ったAさんは、さっそく事前相談に訪れました。

いろいろ自分の希望を話したり、説明を聞いたりするうちに、仏教式の葬儀に音楽葬を組合わせることが可能と知り、家族にも相談。最終的には家族も同席して説明を受け、仏教式と音楽葬の組み合わせでいくことにしたのでした。

その一方Aさんは、エンディングノートに、自分の生い立ちからこれまでの人生をまとめる作業もはじめました。

家族に見せることを考慮して、なるべく簡潔に書くことを心掛けたといいます。

またさくら葬祭とは定期的に葉書を送ったりしてコンタクトを絶やさないようにしました。

ふと、生前に自分の葬儀のことで葬儀社と連絡をとるなんてと考えることもありましたが、家族のことを思う気持ちの方が勝っていたのです。

そんなAさんが突然旅先で倒れ亡くなったのは、70歳を過ぎたころでした。

旅先で倒れたこともあり、Aさんの死は警察扱いとなりました。

しかし家族はAさん本人からも、さくら葬祭からも、こうした場合の対処法をきちんと聞いていたので慌てずさくら葬祭に連絡。

ご長男が現地に行くのと相前後してさくら葬祭も遺体のお迎えに行きスムーズにお家にお連れすることができました。

もし生前に何も決めていなかったらどうなっていただろうか。


後にご長男は、そう回想されていました。

お葬式は生前のお約束通り仏教式と音楽葬の「ハイブリッド」で行い、参列者からはAさんらしい配慮の行き届いた葬儀だったという声が寄せられたそうです。

葬儀の費用はAさんの生前の指示通り、家と土地を相続する長男が負担しました。

Aさんの死は、ご本人の目論見より少し短いものでしたが、突然の、それも旅先での死にも関わらずご本人の周到な準備の甲斐あって家族が後悔するような事態をひきおこすこともなくひとつのストーリーとしてつぎの世代に引き継がれていくことになりました。

初孫が成人される年には、法事とはまた別に、お祖父さまに成人を報告すると同時に、お祖父さまを偲ぶ会を催す予定だと聞いています。


ご主人が長い闘病生活を送っていらっしゃるご夫婦からの生前相談でした。

「音楽とお花で明るく送ってあげたい」

「献花方式で親しい仲間だけで送ってあげたい」

このご要望を聞き、すぐにご自宅のリビングでの献花式を提案させていただきました。

通夜のお別れ会は2部構成にします。

1部はご親戚、2部は仲間の方々に向けて執り行います。

「そうするとご近所様は、どうなるの?」と奥様。

ご主人がご逝去された際には、お式までの日程をゆったりと延ばすことにします。

そうしてできたお式までの3~4日の間に、ご近所様には三々五々、リビングにつくった祭壇で献花していただこうというわけです。

その間、ご主人にはゆっくり「お休み」いただくというのもひとつの考え方です。

9ヶ月後……

ご主人はご逝去されました。

9ヶ月の「終活」の中で様々なお話をさせていただきました。

その中ではっきりしてきたのは「日常生活の中に非日常の空間を」というコンセプトでした。これをストーリーとしてかたちにしたのが生花祭壇です。

出来合いの祭壇を飾るのではなく、お部屋にあった装飾を季節の花で施します。

さらにカーテンをオープンにして近隣の山々の風景をそのままに借景にします。

「幕は張りません」

「祭祀空間はご家族でつくります」

お別れ会の前々日。弊社音楽部のヴァイオリン奏者-シンセサイザー奏者での デュオ献奏をさせていただきました。

奥様、ご長女、ご家族だけの時間です。

それまでにいただいていたリクエストに加えてご主人が好きだったという「会いたかった」(AKB48)のリクエストをいただきました。

通夜(お別れ会)当日が来ました

1部はご親戚のみのお別れ会。クラシック曲中心の「故人へのレクイエム」を演奏します。

2部は仲間の方々とリクエスト曲中心で故人を偲び、最後は「会いたかった」(AKB48)。

全員がスタンディングです。

手拍子をとったり、「オタゲー」をしたり。集まった皆様の心がひとつになりました。

翌日はご家族だけで故人をお送りしました。

ご出棺前には三重奏(トリオ)で献奏。 火葬場は真鶴聖苑です。

海が好きだった故人とご家族の「最後の小旅行」となりました。